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-CANDY-  Candy Says 8章

(2020/05/02)

「目を瞑って寝ようと頑張ってる時に、時々は飛行機の通り過ぎる音が聴こえないと、僕は落ち着かないんだ」

「どうして? 静かな夜の方が、眠るのにはいいんじゃないの?」

「眠れる時は、煩くたって、シンとしてたって眠れる。でも、眠れないなら、この飛行機、いつもより近く飛んでないかな? まさか、落っこちて来たりなんてしないよね? って不安になったり、したい」

「考え込みたいの? ううん、内側を考えたくない、自分の外のことを考えたいんでしょ?」

「そう」

「僕らは何歳から大人になるんだろう」

「あなたは今、いくつ?」

「二十三歳」

「なら、大人じゃない」

「そう?」

「誕生日おめでとう」

 彼女が僕を背中を抱きしめて、スッと覚めるような気持ちになった。彼女の平たい胸と小さな顎を僕は感じ、ひとりじゃないのは空港が近くにあるのと同じくらい安心するなって、肩の力が抜けた。

 居てくれて、ありがとう。

 僕は二十三歳になった。

 僕は背中から抱きしめる彼女の方へ向き直ると、不安げな顔は見たくないのか彼女は背を向けて、僕はまたひとりになった。街灯がカーテンの隙間から漏れこんで、彼女の白いタンクトップだけ闇から浮かび上がっている。子供と大人の境にいる僕たちの、間には何もない。その境はある意味リンボだ。きっと、この時代をどう生きるかで残りの人生の有無が決定されるんだろう。

 少なくとも、過去に囚われ続けることをやめられないうちはどこにもいけないかもしれない。扇風機の音を飛行機に見立てて眠る。

 その晩僕は戦争の夢を見た。 田舎の雲の下で戦闘機が飛び交っていて、大きい宇宙船が僕の家の前にある広い荒地に墜落した。僕が二階から、網戸越しに見ているとその飛行機は身体が揺れるくらいうるさいプロペラ音を響かせながら落ちてきて、セピア色の枯草びっしりの土をえぐりながら何秒間か抉り続けて、止まった。土ぼこりが舞うので僕は窓を閉めた。家には家族も誰もいないようで僕はひとりだった。

 恐怖心はなかった。どうしたものかなと窓から外を眺めていると、北にある丘の隅、西の端に覗いていた灘に大きな爆弾が落ちるのが見えた。海は二十キロほど向こうだったが、爆発で上がったキノコ雲はまるで晴れの日の夕暮れのように明るく、美しかった。津波のように爆風がこちらへ向かってくるのも見える。それは白い壁のように分厚く高く、遠い街を呑み込みながら広がっていく。

 ここまで届きはしないと高を括っていたけれど、爆風の壁は勢いを緩めず着実に僕のいる方へ来ている。一里も離れていないところまで迫り、僕のよく知っている建物が飲み込まれて行くのを見て、ここまで来るんだと察し、悟ったように僕は諦めた。

 残念だが、そこで僕は眠るように目から覚めてしまった。だから彼が死んだか、それとも生き延びて苦しみながら生きたか、それはわからない。

 一度はアメちゃんと、彼女と駆け抜ける素晴らしい日々さえあれば、僕は上手く逃げ続けられると思っていたが、どうも追いつかれかけているみたいだ。僕は誕生日を迎えてからすぐに、日記を書くのをやめてしまっていた。

 十月に誕生日を迎え二十三歳になった。カレンダーの上でだけ時間がすぎて行った。まだ、アメちゃんと一緒に住んでいるけれど、ふたりで出かけることは減ってしまっている。秋が過ぎ、冬が終わり、気温は二十度を超える日が多い。もう春なのにどうしてだろう、死の予感から逃げられない、僕の中で永遠に秋が終わらない。

 彼女といる日々は楽しい、それでも一人になる瞬間はある。僕は一人でも生きていられるようにならないと、いつか負けてしまうと思った。最近はアメちゃんに黙って、ひとりで出かける日が増えている。アルバイトに行くだとか、昔の友達に会いに行くだとか言って、僕は長い時間外で過ごしていた。僕はどうしてもひとりで出かけることを彼女に言えなかった。何故なら、そうしながら僕は彼女を裏切っていることを強く自覚していたから。僕は半分生きる理由を探している、でも、もう半分は死ぬ方法を探している。

 僕は実際ひとりで出かけていたのではないのかもしれない。幽霊とふたりで出かけていたんだ。僕はそれに言われるままに出かけ、それと話しながら暗い面から逃げられないことを悟った。幽霊が僕をそそのかし続けていた。誕生日の後も僕は相変わらず生き続けていたが、その次に日付を意識したのは、その春のある夕方だった。

 僕はあの日どこにいたのかをはっきり覚えている。あれは五月の二日で、僕は京都駅まで歩き、そこから電車で嵯峨野線に乗った。愛宕山へ行った。急流の上にかかる赤い橋から世界を見下ろして、結局、僕は本当の意味で新しい人間になることはできなかったのかもしれないな、と思った。

 ここはとことん冷たい世界だ。春の山も美しい。渓谷は美しい。この赤い橋の下を渦巻いて流れる水は、どこへ向かうのか、どこへも向かわない。あれは海へ行って、雲に戻り、また山から流れ落ちる。それだけだ。廻り続けている。人の世も、山奥も、同様に冷たい。僕は自然にだけ美しさを感じる。なぜか。きっと僕は山や川に救いを求めなどしないからだろう。そして人に救いを求めることも不毛だ。山の中にいて思った。誰かがそばにいて、僕を助けようとしてくれても、その人が僕を救うことはできないんだ。他人である以上は、異なる人生を生きて、異なる感情を持ち、異なる時点に死ぬ。これは、もうどうしようもないことだ。一人で生きていけないなら、その時点で人は終わっている様なもので、救いのない世界で救いを求めようとすればするほど、動けなくなってしまう。僕は長い間、赤い欄干に持たれて、ぼんやりと世界を眺めていた、山、川、岩、空、水、生い茂る春の木々、そんなのを一つのものとしてぼんやり視界に入れて、静止していた。

 きっと、その時僕は生と死について考えていた。内面に閉じ込められ動けなくなってしまった時、人は生と死について考えている、無意識だろう、そんなことを考えても面白いことなんて、何もないんだから。生も、死も、僕には絶望にしか思えない。

 生と死について考えるのをやめて、渓流を飛んで渡って行く鳥を眺め、僕と彼女のことを考えた。この世界にこの二つの絶望以外に選択肢がないと思うと、人は途方に暮れ、愛にすがろうとする。愛は不滅であると信じ、すがるように愛そうとする。そう思った時、急に涙が溢れていた。手当たり次第に、目に入るすべてのものを愛し、自らの器を愛で溢れさせようとする。でも、愛は出ていくものであって僕の中に残っていくものじゃない。どうしようもなく孤独だった。愛はきっと不滅でもないんだと思う。どうしようもないんだ。太陽が沈もうとしている。紫がかった空がある。だが、夕日は山の陰に隠れている。

 飛び降りる前、僕はアメちゃんのことを考えていたはずだ。でも、同時に、愛に縋れないのなら、僕は何に夢を見ればいいんだろうとも思っていた。誰かのために死ぬことができなければ、誰かのために生きることもできない。例えその人をいくら愛していたとしても。愛は慰めくらいにしかならない。僕は彼女のことが好きだけれど、そのことが僕を常に正気でいさせてくれるなら、そんな簡単な話はない。僕は橋から飛び降りた。そのあとの記憶はない。

 目を覚ました時、空はよく晴れていた。僕はびしょ濡れで大仙古墳に倒れていた。京都から何十キロも離れた、大阪の、それも普通人が入って行けない様な場所に、僕は倒れていた。一瞬、京都の山奥で橋から飛び降りたことが、夢なのではないかと思った。僕は幸せな日々の中で、目を覚ましただけなんじゃないかって思った。アメちゃんと古墳に侵入して、一緒に泳いで遊んでいる途中で、眠ってしまっていたんじゃないか、とそう期待した。あの夏の日が、僕の人生で一番幸せな時間だったからだと思う。でも、そんなうまい話はない。僕は自殺未遂をした。そして、どういうわけか京都の桂川から大阪の大仙古墳まで吹っ飛ばされてきたんだ。

 あたりを見渡すと、アメちゃんはいない。もちろん僕は一人だった。リュックサックが一つ転がっている。それはアメちゃんが去年のクリスマスに買ってくれたものだ。僕はそれを背負って愛宕山に行った。間違いない。濡れたリュックサックの中身も、最後の記憶と変わらない状態だ。体にも怪我はない。どこも痛くはなかった。ただ一つ、奇妙なことに彼の右手の親指と人差し指の間の皮膚が透明に透けていたがそれだけだ。携帯電話は壊れていたが、キャッシュカードは大丈夫だった。僕は電車で京都に帰った。

 アメちゃんはひどく心配していたようで、ドアを開けるなり、僕に抱きついてきて泣き始めた。一晩いなかっただけなのに、どうしてそんなに泣いているのかと僕は疑問に思った。

「どこに行ってたのよ。一週間も待っていたのよ」僕は一日しか経っていないものと思っていたが、僕が気を失っている間に時間は過ぎ続けていたらしい。

 その日は、アメちゃんの誕生日の前日だった。

 僕は慌てて東京の友人の家に遊びに行っていたと嘘をついた。水遊びをしていて何もかも壊れてしまい、キャッシュカードを再発行するまで戻ってこられなかったのだと言いながら、僕は実際、泥まみれになったノートと、壊れた携帯電話を彼女に見せた。

「でも、なんとか誕生日には間に合ったんだし、許して」「いや」彼女は珍しく、本当に怒ってしまって、口を聞いてくれなかった。仕方がないから僕は風呂に入って、着替えてまた部屋に戻った。こたつに入って黙って彼女を抱き寄せた。五月のこたつには電源が入っていなかった。彼女はまだ泣いていた。着替えたばかりの僕のTシャツの腕はまたすぐに湿っていた。

「アメちゃん保津峡って知ってる?」と肩にもたれかかっている彼女に尋ねた。

「知ってるわよ。自殺の名所でしょ」

「そ、そうなの?いや、キセルの名所って話をしようと思って」僕は、本当にその場所が自殺で有名だと知らなかったから、図星を指された様に黙ってしまった。

「キセルって何?」彼女が疑う様子を見せないから、僕は安心した。

「無賃乗車だよ。無人駅で、僕の友人は昔よくあそこの駅を使っていたんだ。その友達、今は東京にいるんだけど、仕事の用事で久しぶりに京都に来たからって言って、それで一緒に保津峡に行ったんだ」これは全部僕の作り話で、僕はあの友達が今どこで何をしているかを知らない。

「その人もうお金あるんじゃないの?」

「キセルをしにいったんじゃないよ。思い出を振り返りに行っただけだよ。懐かしいねって言って、そのままお酒の勢いで東京に一緒に行ってしまったんだ」

「意味わかんない」

「ごめんね」

「いいよ。でも、もうあんまり黙っていなくならないで」

 どういう経緯で京都から大阪に体が移動したのかを考えると頭が痛くなったが、とにかく僕は彼女の誕生日を祝うことにした。僕はとても幸せだった。知らないうちに死のうとしていた自分は、その時の自分の中には見つからず、僕はどうすればこれから突発的にそういう行動を取ってしまうのを防げるのか、と考えた。その日の僕には何もかもが恐ろしく思えた。僕は死にたくなんてなかったはずだった。どうしてだろう、となんども自分に尋ねた。とにかく生きていることに感謝した。

 僕はオークションサイトでカセットプレーヤーを買い、何本か彼女の好きなバンドのカセットを一緒に、誕生日プレゼントとしてアメちゃんにあげた。