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-CANDY-  Ceremony 2章

 空港を出た彼女は熱帯アジアの大気を胸いっぱいに吸い込み、夜明けの町へ歩み出た。初めて見るバンコクの街は早朝独特の活気付き始める感じに輝いていた。目に見える全てが黄金に透けて、コンクリートにも溶岩のような血液が流れている、初めて見るものであるが、どこか見慣れた景色のようで、その国、タイ王国のアトモスフィアは彼女のもののように感じられる。慌ただしく透明の人が生活している脇をすり抜けながら彼女は歩道橋を渡った。

 空港のそばにある鉄道から彼女は列車に乗り、その国の東北部、現地語でイサーンと呼ばれる場所へ向かう。淡いスミレ色のガラスのような美しい車両は夜の空を透かし、空は孔雀の構造色の煌いていた。一郎が大学の四年間を過ごしたバンコクから、彼が最も愛したイサーンへ向かう。懐かしさを感じる理由はそれだろうと彼女は推し量った。列車の窓から、徐々に減っていく街の活気を眺め、蒼い水牛の休んでいる広い農場に視界を委ね、少しずつ彼女の脳ははっきりとし始める。

 酔いが醒めているように、視界の細部に意識が届くようになり、彼女は見えていたが考えが及んでいなかった全てのものに愛着を感じた。記憶は混濁していたが、脳は新しい感性で世界を迎え始めている。

 窓の外に広がる農地、どこまでも続く地平の果てから吹く季節風が彼女の頬を撫でる。一郎はよく彼女に言ったものだった。常夏の国にも季節があるのだ、と。

 列車には誰もいなかった。ただ音を立てタイ王国の東北部へ向かっている。この旅のうちで彼女は何度も自由を自覚していたが、今感じている風がそれを最も印象づけた。五月の風はどこでもない場所から彼女へ吹いて、夢をまるで現実のように見せる。

 居眠りをしているうちに列車は夕方の町に着く。灰色の雲が日の終わりを示している。すぐに青は紺に変わるのだろう。彼女の知っている色彩と、彼女の知らない色彩がちらちらと揺れていた。彼女の混濁した脳は、彼女の不思議な記憶に苦戦し、瞳は必要以上の情報を脳に流し込もうとしていた。駅を出ると彼女は現地の人間に貸しバイク屋の場所を尋ねて、急いだ。市場に下がる白熱球は、白から淡いオレンジ、それからオオムラサキ色にまで移ろい、夜の路上はただの鼠色か青い熱帯魚の鱗のような眩い虹銀色にまで点滅していた。

 三千円程度のバーツで原付を借り、近くのスタンドでガソリンを入れると、沈みかけている夕日から逃げるように紫のスズキの原付は走り始める。町の外れで、信号もなく彼女は停まる口実を見つけられず、ただ名残惜し気に夕日をバックミラーに見つめる。

農地を行く彼女の脇をバスやトラックが過ぎて行く。その度に彼女はハンドルを強く握る。街道沿いにある建物は集落の入り口に集まっていたが、相変わらず誰もおらず、寂しそうな犬たちがしっぽを振りながら彼女に吠えた。彼女は魂に吠えていた。記憶ではない、感情でもない、本能のようなものが彼女を導いていく。

 道沿いにあるのはガススタンドだけだった。それらはどれも小さな商業施設の様相を呈しており、ほとんどがコンビニか何か、それに小さなレストランを備えており、日本の高速道路沿いのサービスエリアを思わせる。彼女はこの国に来てから何も食べていなかった。もしこれが最後のガススタンドなら一晩ひもじい思いをしなければならない、 彼女はそう心配してガススタンドに入った。もちろんガソリンは十分にある。ぐるりと一周して、彼女はやはりそこにも人が見えないことを確認した。彼女は奥まった場所にある小さな珈琲店の前に原付を停めた。その珈琲店にだけ、人影が見えていたのだ。珈琲店は周りのコンビニエンスストアやレストランに比べると随分古びていた。

 木造のカフェは階段を六段ほど上る高床式で、バルコニーに三テーブル、中に二テーブルほどしかない小さなものだった。五月の熱帯アジアは日が暮れても暑さが鬱陶しく、彼女は空調を期待し中へ入った。

 店主のハンサムな青年は、長髪を青色に染めて後ろでまとめている。ひょっとすると彼は彼女よりも年下かもしれない。ゲイなのではないかと彼女は疑った。彼女は生まれてこのかた、こうもゲイらしい男に会ったことがなかった。だが、それもこの国では珍しいことではないと聞く。心を隠さずにいられる社会があるなら、それに越したことはない。異性と見るべきでないとしても、依然魅力的な人だった。彼女が熱いコーヒーを頼むと、青年はまだ暑さが足りないのか、と笑った。彼女はただアイスコーヒーが好きではないだけだったが、一緒に笑った。

 薄暗い店内を浮かび上がらせる照明は、全てろうそくで独特な光の印象が彼女の目を引いた。ろうそくはどれも青や緑の瓶に入れられ、その本来の明るさを遮られている。しかし、寒色のガラスを透けて目に入る光はまだ暖色の温度感を保っている。彼女がこれまで見たものの中で、覚えているものの中でという意味だが、それは比較するものが思いつかないような美しい光だった。

 神聖な暖色と形容するしかない、そんな美しい光景なのだ。ろうろくの瓶は部屋の至る所に存在した。いや、部屋の隙間を埋め尽くすようそれはところ狭しと置かれていた。彼女は四十六まで数えて諦めた。ろうそくの瓶は天井からも無数に吊り下げられている。瓶は鎖か何かで下げられており、半透明の温かい蝋とガラスを通って光は降り注いでいた。部屋を十分に照らしているが、明るいとは言い切れないその絶妙な暗さはどこか知っている場所のように思えた。

 青年は冷水の入ったグラスと、コーヒーのカップを持ち彼女のテーブルへ来た。ゆっくり盆から机にそれらを移すと、彼は「日本の人だろう? どこへ行くの」と彼女に話しかけた。

 これまで彼女は普通、他人に話しかけられても大した返事をしないのが常だったが、その時はどうしてか会話をした。彼の赤茶けた肌の人懐っこい顔、くぼんだ広い眼窩の底にある黒く大きな瞳が彼女に啓示の予感を感じさせた。彼女はこの国に来てもほとんど人に会わず、すれ違った人がいても、それらは透明で、ひとりとしてその顔を思い起こすことは出来なかった。その分珍しく認識できる人間に心を開いたのかもしれない。

「人を探してここまで来たの」

 彼の視線は彼女を何故か気まずくさせた。恥ずかしいものをしんと見つめられているような心持ちがした。

「君の好きな人なのかい?」

「世界で一番好きな人」

「その人はどうして、ここに来てるの? 観光客も外国人もここに来る人は多くないよ。物好きしかこんなところ来ないよ」

 彼女にも一郎がどこにいるかなど分かっていなかった。分かっていれば真っすぐに向かっていた。

「その彼、物好きなのよ。私お腹が空いてこの店に入ったの。何か食べものないかしら? ケーキ以外で」

 青年はパンを二枚焼いて目玉焼きと一緒に皿に乗せ、彼女の前に置いた。

「本当はもう閉店の時間なんだ。でも、君がいるうちは開けておくよ」

 そう言って彼は前の椅子に腰を下ろし、煙草に火をつけた。すっかり気を抜いた様子だった。テーブルの上に雑に放られた煙草の箱には病気の臓器の写真があった。不健康が良いとかそういう意味ではなく、彼女は漠然と写真から生そのものを感じた。何故か正しさを感じたのだ。生きているように感じたのはしばらくぶりのようだった。パンを食べ終わった彼女に、青年は煙草を勧め、彼女が一本咥えると、細い指でマッチを擦ってくれた。青い火花が散って、煙草の先は赤く灯り、吸うとつーっと一筋紫の煙が、宝石の粉のようにふわりと上がった。

「名前は?」と青年は尋ねた。

「好きな人は私をアメちゃんって呼んでた、私そうやって呼ばれるの好きだった」

「それってどういう意味?」

「キャンディー。ぺロペロキャンディーとか飴玉とか、そんな感じ」

「やあ、キャンディ。初めまして。僕はフォンっていうんだ」

 彼は笑った。彼は細い指で灰皿に吸殻の火を消した。

「初めましてフォン」

 彼女は何故か、この外国人、おそらくはゲイの青年と一緒にいて落ち着くようだった。言葉を見失い、二人は黙ってコーヒーを飲んでいた。そして、黙って煙草を吸った。煙の筋だけが動き、天井へと上がっていく。「フォン、あなたいくつなの?私より年下に見えるくらいだけど」

 彼は煙草に火をつけ終わっても、新しいマッチを出しては火をつけ、癖なのか、手が熱くなるギリギリまで火を眺めては灰皿に落とすだけのことをずっと繰り返している。マッチを擦るフォンの指はしなやかで、美しい花の茎のようだった。

「僕は二十七歳だよ。日本人には若く見えるのかな」

「よく日本人が来るの?」

「いや、こんな田舎にはほとんど外国人もいないよ。二年前まで大学生で、コンケンっていう町にいた。コンケンにも日本人が多くいるわけではないけれど、それでも一人知り合って案内したな、良い思い出さ。とにかく、これも良き出会いだ」そう言って彼は手を差し出した。彼女は握り返そうと自分の手を見て、思わず唾を飲みこんだ。

 キャンディの手はフォンのものに負けず劣らず美しい。指はすらりと長く、白い。ただ、奇妙なことに、彼女の人差し指と親指の間にある皮膚の膜は、トルマリンのように透けていた。単純に視覚がおかしいのか、この不安定な視覚を得ることになった過程で得た副作用なのか、それともただ夢のイタズラなのか、彼女はろうそくの光にその透明の膜を透かせて眺めた。それは奇妙で美しかった。その手で彼女はフォンの手を握り返した。

 別に彼女は手の甲をつねって夢から覚めようなどと考えはしなかったし、自分の心臓に手を当てそれが鼓動しているかを確かめもしなかった。これが現実でなかろうが、何であろうが、とても心地よく素敵な世界であることには変わりなく、彼女は何も現実だけが本筋の世界ではないと考えるのだ。

「キャンディ、君の眼は不思議だ。まるで本物の飴玉みたいだ。ソーダ味かな」

 キャンディは窓に映る自分の目を見つめた。彼女は青い目を持っていた覚えなどなかったのだ。それは確かに青かった。西洋人の持つ碧眼とは異なる青、その眼には瞳孔すらなかった。一見白目と黒目に分かれているように見える。白目は透明のガラス玉のごとく澄んでおり、その底には神経か膜か、血管か銀色のものが見える。白目のガラス玉の中には水色の透明の玉、それがフォンの言うソーダ飴なのだが、黒目のように表面に張り付いているのではなく、ガラス玉の中に浮かんでいる。遠くを見るとその飴玉は表面に浮かび、右を見ると右へ、左を見ると左へ転がる。まさにソーダ味の飴玉のような水色で、ひび割れた玉の中心にはより深い青が隠れているのが分かった。

「確かに変な目だ。私どうかしたのかな」

 キャンディは不思議そうに窓に映る自分の顔を眺め続けた。瞼は濃い青緑色の透明の膜でとても美しかった。唇は細く鋭く、真っ赤である。

「キャンディの好きな人はどんな人なの?」とフォンは言った。

「聾者よ。でもとてもハンサム。あなたみたいに大きくて可愛い黒目を持ってる人」

瞳を褒められ、彼も暗い夜景を切り取った窓を覗いた。

「彼は君のことを見ることができるのなら、それはとても素敵なことだ。だってキャンディは凄く可愛いんだから」

「そうね。会えたらきっと喜んでくれる」

 フォンは惜しげなく褒める人で、しかもその言い方がとても素直であった為、彼女も素直に喜んだ。そしてキャンディ自身、実際かなりの美女なのである。

「よかったら宿まで送るよ」

「原付借りてるから平気なんだけど、でも、宿がないの。この近くの宿を教えてくれるとうれしいな」

 フォンは自分の実家に彼女を泊めると言った。それが最も普通の選択肢であるかのように彼は言い、彼女もその提案をありがたく受け入れた。フォンが一つずつ瓶の蝋燭の火を消していく様は、見ていて飽きない。精霊たちを慰め、寝かしつけているようだった。火が消えると瓶はただの静かなガラスに戻る。

 背後のろうそくがほとんど消えてしまうと、キャンディの吐き出す煙草の煙がいよいよ正面の火に照らされ光った。煙草の煙が一筋浮き上がる様は、照らされると尚美しいが、その光が幾分特殊であるため彼女はそこに美しさ以上のものを感じた。世界中のどの寺院を探してもこう美しい香が上がっている場所はないだろう。煙ではなく水の流れのように見えた。光にちらちらとゆれる小さな青緑色の水流だ。今キャンディは不思議な美しい色と現実の色の両方を見ることができた。

 フォンが戸締りを済ませ手提げかばんを持つと、彼女も続いて店を出た。外に出て少し多めに金を払おうとすると、フォンは断った。

「お金は要らないよ。時間外だし、僕らもう友達だろう?」

 フォンは原付にまたがりエンジンをかけた。仕方なく財布を片付け、キャンディも自分の原付にまたがり、彼に続いた。そうして、二人はガススタンドにある不思議な珈琲屋を後にした。