カノエは相変わらず古いマンションの角部屋に住んでいた。煤けた喫茶店に入るとカノエはしょぼくれたアメリカンコーヒーをずるずると啜りながら相変わらず、文句を垂らしていた。僕は灰皿の上で崩れていくラッキーストライクの先を見つめた。煙はまっすぐに上がり、途中午後の光に弾かれ――僕は暗い喫茶店の小さな窓から差し込む曇り空の光を見つめた。
「やから。そういうとこやん…」と彼女は眉を顰めてぼやいた。彼女は前に会った三年前の冬から何一つ変わっていなかった――が、僕は大きく変わったような気になっていた。しかし、彼女に会うとわかったのは、僕はただ変化によって変わり果てて疲れ、ほんの三年のうちに振り出しへ返されているという事実だった。
「甘えすぎやねん、そいつは」
「けどさ、」
「でも、も、くそ、も、ないねん。あんたみたいなグズグズした人間は見えてへんのかもしれんけどさ、上手くいきっこなかってん」
カノエはどんな時も僕の肩を持って話してくれた、それが行き過ぎると僕の恋人のことを悪くいうようになる。数年前によくあった風景だった。僕は本当にその女の子に入れ込んでおり、自分を悪くいうのは構わないが彼女のことを責めるのだけはよしてくれ、とよく言ったものだった。しかし、カノエはそういうとき必ず言った。僕が全て自分で背負いこもうとすることによって、その女、つまり僕の彼女は責任逃れをしているのだ、と。しかし、僕が背負いこもうとしていること自体がそもそも見当違いなものである可能性が高く、お前の好きな女がお前に感謝をする可能性だってほとんどない。二人で黙って恋人ごっこをしているようだが、そこには何のコミュニケーションも起こっておらず、すれ違いの怒りや愛情は不器用に用水路の曲がり角で動けなくなっている。
僕は今も自分が全てを背負いこもうとしたことが間違いであったとは思わないし、彼女が責任逃れをしていたとも思えない。しかし結果だけを取ってみれば、当時からカノエの指摘していたものが見事に全て命中し、それが仇となって僕とその女の子は突き当たっていた。僕は首を回せなくなり、彼女は僕がどうなっているのかを理解することができなかった。明らかなコミュニケーション不足を放っておいた結果だ。しかし、やはりカノエはそのことで僕を責めはしなかった。バカだとは言った、そう言いながら彼女はラッキーな煙を吐いた。
「ねえ、カノエはまだ自分のこと主人公やと思ってる?」
「もう二十五やろ、うちら。そんなん考えてしゃあななってるのもダサい年やん」
「諦めたってこと?」
「しゃあないわ。そんな夢とかずっと追っかけててもあかんやろ。みんな仕事して結婚して、うまいことやってんねんからさ」
僕の目の前にいるカノエは既に半分ほど透けていた。これからまた透明に近づいていくとどうしようもない気になるし、時が過ぎることを不幸に感じた。カノエは何も変わっていなかった。僕が好きな人と三年付き合って、別れて、空っぽな気持ちになって、罪悪感と至らなさでまたグズグズして、目も当てられなくなり、再び不確定な恋に手を出しかけている間も、彼女は何も変わっていなかった。そして、散々変わったように見えたが僕もこうやって何もかもを失って三年前と同じところに戻ってきているのだ、窓からは小さな橋が見えた。向こう側に彼女の住んでいるマンションがあった、あの胡散臭いマンションだ、僕が今となっては近づけなくなっている場所だ。
「あの橋で写真を撮ったんが一番の思い出な気がするんやけどさ、ほんとはもっと色々あったはずやねんな」と僕は呟いた。
「ええもんあげるわ」と彼女は黒い大きなリュックサックの中から煙草の箱を出した。僕はそれを受け取り驚いたように見つめた。それがゴールデンバットだったからだ。
「あん時あんたはまっとったよな」
「あれからバットがどこにも売ってないようになるまでずっと吸いよったわ」僕は懐かしく思いながら銀紙を破いて中から短い白い煙草をとった、が僕の手の中でさっきまでゴールデンバットだったものは、少し長くなりフィルターを包んでいる紙はラーククラシックマイルドの茶色に変わっていた。
「正直言って、カノエがおらんくなってから、話し相手には相当困っててさ。なんか」
「赤ラークやめたんや?」
「うん。なんか重くなってもうてさ、歳かな。早死にしたくないなって思って、あと包み紙の銀紙が普通の白い紙になったのも納得いかんわ」
「文化ぶって煙草吸うのやめや、この三年間何も変わってないやん、がわだけ気にして空っぽなんやから、あんたは一回白い包み紙で我慢してうまい煙草探した方がいいで」
彼女は席を立ち、リュックサックを背負った。僕は彼女を引き止めるだけの話のタネを持ち合わせていない、語り口だって話す内容だって前と何も変わっていない、僕だけが変わらず、もっと不動であるべき彼女のスタンスだけが薄まり、消えていく。僕はトボトボ立ち上がった、それにどんなに絶望したところで、くだらない悩みとわかっているから、今更死んでしまおうという気にもなれなかった。彼女の後ろすがたを追って、川へ向かった。汚い川だ、曇り空、黒い水、橋へと続く階段には吸い殻ばかり未練のように連なっている。彼女は早足で橋を渡って行こうとしている。
「ねえ、どうしてええかわからんわ、マジで。これから一生同じことの繰り返しで、会うたびに同じ人間に戻って、カノエがずっと同じ人間なのはしゃあないやん、それが特権なんやから。生きてるんやから俺は変わってないとおかしいのに、何も変わってへんから不安で。なんか新しいことしようと思ってもまたおんなじ失敗ばっかして、同じことに悩んで、おんなじ人間のまま喋ってる、泣き言だけ聞かせて、無条件に慰めてもらって、情けないと思う」
僕はもう橋の向こう側へ行くことはできないのだ。そして彼女が行ってしまうとまた当分見られなくなってしまうだろう。
「慰めてるつもりなんかないで。くたばりぞこなったんやからがめつくやらんとあかんやろ。なんでもやりや。一人でやれんのやったらまた誰か誘ってやればええねん。ダサいのがかっこいいってのがあんたのモットーなんやからグズグズしてるのもええけど、頼むからやってからグズグズしてや。なんもしてへんくせに構ってもらいたくてびーびー泣いてるやつがいっちゃん嫌いやねん」
「そうやんな。わかってるつもりやねんけど」
「あんたまだ自分のこと主人公やと思ってる節あるやろ」
「まだ、多少は信じてるかもやね」
「もっと思い込んでこの世は自分だけやと思って生きたらええやん。話は黙って聞いてるし、けどみっともないからしょうもないやつに愚痴こぼすのはやめた方がええわ。どうせ、あんたが聞きたいんは、「うん」と「確かに」だけなんやから」
「わかった」
「そういうとこやで。マジみみっちいだけなんははきしょいわ。好きなだけ泣き言いうたらええけど、夜中に一人でやらんときついわ。私以外に聞かせたってしゃあないんやから。まあ頑張ろな」
「ありがとう、来年は愚痴じゃなくて自慢話できるよう頑張る。カノエも消えんように頑張って、あと誕生日おめでとう」
乾おめでとういつも話聞いてくれてありがとう俺は負けないぞ!
伊藤おめでとう今年こそは最強の年にしよう!