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short-stories 2022 Let Me In

便器に腰掛けている時間が一生の何分の1だとかいう話を聞いたことがあるだろう?あれはかなりふざけていると思うよな。あれは大抵、君らの人生をつまらなくてくだらなくてみじめなものだと思わせたくて言ってるんだ。だから僕はあれがふざけていると思うんだ。だから君はああいうのに屈してはならない。今僕はそういうことをトイレで糞をしながら考えているんだ。トイレで糞をしているときに君は何を考えている?まさか、糞のことだけ考えてたら不意に吐き気を催したりしないはずだ、糞のことを考えていたら糞が臭いこと忘れてないはずなんだから。僕は今かなりたくさんのことを考えながら糞をしている。もちろん糞がなかなかでてこないことも考えている。それに、人間が便器の上でどれだけの時間を過ごそうが勝手だろうと怒ってもいる、そして白い綺麗な床に落ちた陰毛の形を辿ったりもしている。そして、思い出した。僕はいつもトイレで同じようなことを考えているに違いないんだな。だってこの散らかった何本もの陰毛を辿ると女の横顔になるではないか。この女の横顔を見出したのは今日が初めてではないのだ。この女はいつだって横を向いている、そうしてやけに抽象的なんだ。僕は彼女の顔を正面から見たいとなかなか思えない。正面から見てどれだけ綺麗な顔をしていたとしても、僕はそれを見て満足できないに違いないからだ。完璧な女の子というと、今しがたうるさく玄関を開けてうちに帰ってきたところだ。そうして入念に手を洗っている、彼女はいつも二分ほどかけて手を洗う。石鹸は決してつけない、僕は自分がトイレから出た時、石鹸に触る癖がある。それは彼女が石鹸を使ったかを確認するためだ。石鹸が濡れていたことはこれまでに一度もなかった、僕もこれまで一度も石鹸を使ったことがない、時々ヒゲを剃る時に使うくらいのものなんだ。あまりきちんとヒゲをそるタイプじゃない、適当なカミソリと石鹸でやってしまう、湯も使わない。シェービングクリームはあるにはあるんだけれど、取りに行くのが面倒なので使わない。彼女はまだ手を洗っている、知り合った時からそうなんだ彼女は手を洗うのが好きなんだ。冬でも長い間手を洗っている。彼女は不幸な女の子なんだ、僕はそう思いたい。そうでないと僕にはとても勿体なさすぎるから。それとも幸せすぎて暇つぶしに僕と一緒にいるんだろうか?僕は尻を拭いて、水を流してしまってからもしばらく便器に座ったままだった。彼女が手を洗っていたせいもあるし、考え事がつい楽しくなってどこへも行きたくなくなってしまったからでもある。とにかく床に散らかっている陰毛の形を眺めていると、やがて星座の物語が起き上がって始まって行くような気がしてる。彼女ががたがたとドアノブを動かした、僕は黙っていた。彼女はドアをあげた、僕はズボンに手を伸ばそうとしながら彼女を見上げた。

「ねえ、橋を渡るときに臭ったのよこびりついて離れないわ、台風だったでしょう。大勢死んだのよ、橋の上までぷんぷん死んだ鯉の匂いがするの、ひどい話じゃない?私ってあの川に鯉がいることも知らなかったのよ、死んじゃってから突然気づいたわけ。だから、とても悲しいの」

 彼女はトイレに入るとバタンと扉を閉めて、狭い室内に居場所を探そうとした。そうして結局壁にもたれて僕を見下ろしていた。

「いい匂いがする」と僕は言った。彼女は首を傾げた。「なあ、いい匂いがする」僕はズボンをはいてトイレの小さな窓、ちょっとしか開かないあの窓だ――そこへしがみついて、鼻を小さな外の世界に押し出した。

「ねえ匂いが飛び込んでくるだろう?」

 彼女は慌てて僕の後ろからトイレの窓を嗅ごうとしている、とてもいい風が入ってくるのだ。でも届かなくて、彼女は便座の上に立って僕の肩に手をついてそれから窓に飛び込んだ。彼女は言った。

「ねえ今は何月?」足元の陰毛はいつの間にか蹴散らされていた。

 僕はすぐに今が何月なのかを思い出せなかった。確かに窓から飛び込んでくるのは季節の匂いのする風だった、窓の向こうにあるのは夕暮れ時のうすむらさき色をした空だった。