表紙へ

イレギュラーウィンター 第一章 一話

第一章

遠く離れ、澄んで

 かの女は大学を卒業して北部へ越していった。結局は厳しい父親とうまくやれなかったらしい。「バンコクに残された老父はその妻と喧嘩ばかりしている」とゲッドは他人事のように寂しく話した。山の中に住むのがかの女には一番良かったのだ――都会の刺激は痒いぐらいで、むしろ不快なんだと言う。苦笑いするしかなかった、僕にしたってどっちにもいけないような毎日を送っている、ゲッドのいう通りなんだろう。夕方の裏通りで老人がしきりに痰をはいているのが聞こえた。その音は遠かったが、はっきりと聞こえた――途端に自分も喉に何か絡んでいるような気がし始めたので、しつこく咳払いをした――人が生きている、当たり前のように――ゲッドは僕の咳払いに顔をしかめイヤホンを外した。そして、耳がちぎれる、と言った。

 眼球が全くの銀色に光り始めて大学を休んだのがちょうど一年前だった。病気になってしまったことについて多く語るつもりはない。ゲッドとはかれこれ二年ほど会っていなかったが、療養の間にも電話はそれなりにやった。ほとんどはビデオ通話で、去年の夏なんかはラマダンの南部を見せてくれたし、年越しにはバンコクの花火を画面越しに一緒にみた。今日、かの女は霧深く気高い山並みのなだらかな形を背にして歩いていた。いかにも北という景色でまるでタイ王国でもよく行く中部や西部には見えない植生、パゴダの形だって肌の色だって違う。コンクリートの部屋で相変わらずぼやけた僕を見てかの女はため息をついた。あの頃は悪くなかったわ、でも私悪いけど、そこまで言ってゲッドは口を閉じた――僕は今も嫌いじゃい。かつてかの女としばらく一緒に過ごしたのはこの部屋じゃない、あの鳥籠の中にあったアパートは取り壊しになった、今じゃ僕らの出会ったチャトゥチャック夜市だって無くなっていた。些細な変化と錯覚が積み重なって、気づけばどこか判らない場所まで来ている、いくら叫んでもあの場所には戻れない――バンコクに初めて来たあの夏の日から何年が経ったのか、何もかもが変わったように思えるこの日々は恐ろしく、僕の途方に暮れていた原因だった。

 ゲッドは電話越しにプリンを食べて言った、今年の夢わかった?――覚えていない。どうして覚えていないの、それともあなた生きてなかった? 僕は生きていた、当たり前だろう、けれど、どうなんだろうな。

 相変わらずぼやぼなのね。

 かの女は東屋の脇にある樹脂のゴミ壺にプリンの殻を放り込んだ。今年の夢はさよなら、よ。そう言うとゲッドは黙って画面を見つめた、恐らく僕の顔か後ろのコンクリートの壁を見ていたんだろうが、しばらくするとかの女は黙って電話を切った。

 

 それから、写真が送られて来たのは夜中十時前、僕は夢の中で、かの女が戦闘狂の女神に変貌するのをみていた。ただ呆然と、かの女が悪魔のような、みんなを悲しくさせるものを焦がすように裂き殺すのを眺めていた。ここに来てからずっと眠っているのに、眠気だけはずっとここにあり続けた。目覚め、かの女のよこした写真を目の当たりにして考えたのだ――かの女は僕のいないうちに、外見が変わっていないものの七十年ほど宇宙的な時間を過ごしたのではないか、と。僕は疑っている――かの女は僕からはもう手の届かないような、遠い場所でとてつもなくセイクリッドになってしまったのではないか。

 写真は子供が茣蓙の上で飯を食っているのを撮ったものだった。平皿から米を摘まみ上げて食っている、コイという発酵した魚をすり潰したサラダのような料理を葉に包んで一緒に。裸足の足の裏が黒く汚れていた。ため息をついた、写真に返事はしなかった――ただ、手で飯を食ってる子供に比べたら、この汚い床にひっくり返ってる僕のサンダルは惨めだ。窓の向こうの明かりが怖かった。しばらくブランケットに包まって凍えていた、治ってなんかいないじゃないか、と僕は叫び出しそうになっていた、でも叫んだところで誰がどこからここへやってくる?

 ――ここは冷房が強すぎる。

 僕は朝から夕方にかけて眠り、夕焼けの隙間でインスタント麺や、冷えた弁当を食べ、日没から夜明けまで眠った。夜明けには通りをゆくごみ収集のビルマ人を眺め、会釈をし、烟草を吸った。青空とは別の青い空の下でだけ僕は生きていた、その瞬間のみ、僕は呼吸を許されたように水面へと浮上した。そんな日を繰り返していた、両親は僕が元気になったと信じていたが、僕は睡眠薬の紙袋を握り潰し――薬は怖かったのだ――震えながら待っていた。やがて狭間に蠢く者に、気づいた人間があった。電話が鳴った、大学の事務所からである。帰国の日付を伝えていたが一向に顔を出さないので心配したか何かだろうが、仕方がない――眼球の色も、今はまともになっている。魚のような銀の瞳ではなくちゃんと人間の白黒の目なのだから健康には違いない。僕は知っていた。電話に出るくらいのことは出来るはずだと。電話を取るとピーコッブがわたわたと何か言った。タイ人らしい英語を聞くのは戻って来て初めてだったのでしばらくは彼女が何を伝えようとしているのかが分からず、怒られていると思い僕は黙っていた。よく聞けば彼女は僕を心配していた、すかさず僕は生きていると主張した――当然だが生きていることが大きな大きな正義で生きているとさえ言えば皆が納得してくれると思っていた。このままではまずいでしょうね? やはりそうですか、しかし怖くて昼間に出歩けないんです。彼女は僕にとりあえず大学にきてみてはどうだと言った。僕はうーんと唸って、恐らくいけないような気がしますと言った。当たり前だろう、ピーコッブは理由は聞かないでわかったと言った。どうにかすると言い電話を切った。何をどうにかするというのか知らないが彼女が自分を気にかけていることがわかり、少しだけ嬉しいような気持ちになった。