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イレギュラーウィンター 第一章 二話

第一章

遠く離れ、澄んで

 カーテン越しに時間の過ぎていく様を見続けることは虫の一生を観察することに似ていた。隙間から差し込む光の太さの微妙な違い、壁の窪みにかかる影の角度、些細な変化が常にこの世界では起こり続けている、僕だけが止まっていても変化は続く、時間は流れる――目の下に出来た深い隈に唾を付けた。そうすることで涙がつむじの方へ集まる――目から流れ落ちるから病人は病人の顔になっていくんだから。突然玄関がノックされたのは、電話を切った十五分後だった。外へ出る気にはならなかった。しかし、ドアを開けるぐらいのことはできるはずだった。僕はノートを閉じ、ズボンを履いて玄関へ歩いた。そして、ゆっくりとドアを開けた。

 インド人の男がドアの前に立っていた。これは大学の一つ先輩だった――しかし年は同じなので僕らは一時期仲良くしていた。酒はやめたんだ、と僕は言った。このヴシィーヌという男とつるんでいたころ、僕は毎晩三百バーツ分の酒を飲んで、所かまわず吐き散らかし、目を覚ます度に記憶を辿らなければならないような毎日を送っていた。それはそれで楽しかったはずなのだが、終われば何が楽しかったのかは全く思いだせず午後三時の起床にも嫌気がさしていたので交流を断った。だが、お昼の三時に目が覚めるのはそれで止むわけではなく、その後僕はまっすぐ睡眠の悪魔のいる方へ走っていったのだ――つまりこの男との繋がりが切れてしまった後に諸々の悲惨な出来事が起こったということなので、ヴシィーヌが目の前で微妙に不快な笑みを浮かべているという状況が今数年ぶりに起こっていることを意外に思った。ヴシィーヌはくすんだ青のTシャツにジーンズといういつもの姿で、金持ちらしくBluetoothイヤホンと金のネックレスを首にぶら下げていた。悪いが、酒はやめたんだ――まさか――気づけば僕は改めて彼に断りの文句を放っている。ヴシィーヌは何か言葉を探しているようだった。この男の低くないカーストらしい肌の色と、日本人にはあり得ない密度で喉まで生えた髭、黒く大きい瞳を見て、ああこの男はインド人だなとぼんやり考えながら、僕は追い払うことを考えていた。そして、しばらくするとゲッドのことを思いだしていた。ゲッド嬢は肌の色こそ青色でインド人より珍しかったが、目や眉の感じがインド人に近かった、少しアラブ系でもっとアーリアな感じの見た目だが、かの女がすっかり仏教徒の面をしているのでなかなかその出自に迫ることができないでいる。また、かの女も金のネックレスをしていた――しかしヴシィーヌのそれが何のシンボルでもないことに対して、ゲッドの金のネックレスは車輪を模したものだった。僕は黙って彼を見つめていた――或いはその後ろにあるセメントブロックの塀の窪みの一つを見つめていた。ヴシィーヌはやがて口を開いた。

「イチロウ、悪いが鬱病なんてのは怠惰だ」

 僕は大笑いをせずにいられなかった。ヴシィーヌは僕が笑うのを見てほんの一瞬、潰れた鳩を見るような目になった。が、それも二秒か三秒で昔のようにあの傲慢で強がりな信頼の置ける表情に還った、鼻につくしぐさで肩をすくめ、それから唇を鳴らした。お前はいつまでバンコクにいるつもりなんだ?と僕は試しに聞いてみた。何も変わっていないように見えるこの男が本当に生きているのか突いて確かめてやろうとしたわけだ――大学の不手際でもう一年居なくてはならなくなった、しかし俺に落ち度はないので学費は構わんそうだ。――そりゃ結構なもんで、僕とお前だけが最後に残ったということか――僕がそういうと彼はまた肩をすくめた。とにかく、と彼は一拍子おいて、酒を飲め、死人のような人生を送るのではなく、馬鹿のような人生を送れ、テロ以外なら何をしでかしても構わないんだからと言った。確かに一人でいるのはばかばかしいような気がした。ヴシィーヌは靴を脱いで臭そうな足でずかずか部屋に入って来て、僕のベッドに腰掛けた。彼は一周部屋を見渡し、その散らかり様に満足したらしかった。ボスのいた頃を思いだす、と彼は言った――過去は良いものか?と僕は尋ねた。そんなことを考えるから病気になるんだとヴシィーヌは言葉を振り払った。ボスは数年前まで大学にいた頭のおかしいタイ人の男で、当時ヴシィーヌのルームメイトだった――今は白人の女を抱きたいという理由で欧米に住んでいる――徴兵を逃れるためだったという噂もある。ヴシィーヌはリュックサックからビール瓶を三本とラム酒を一本出してあぐらをかいた。裸足の足の裏が黒く汚れていた。

 ビール瓶を片手に僕らはしばらく黙ったままだった。一本目を飲み終えるとヴシィーヌは口を開いた――光あれ――僕は電灯のスイッチを押した。夕焼けのとうに減退した世界に人工の光が灯る。ヴシィーヌの髭が一層濃く見えた。彼は僕の部屋にある水槽に魚がいないことに気がつき説明を求める。皆死んでしまったんだよ。最後に残ったのはボラペテンシスだった――あれは病気になったとき、ペットボトルに入れて日本へ連れて帰ろうとしたが、冬の風に吹かれながら死んでしまった。でもどうせ死んじまうなら俺が最後まで見てる方がいいに決まってるだろう?川に流したり、放って行ったり、他人に預けたりはしたくなかったんだ――死んだのは京都のどこか、丘の上にあるお寺の庭に埋めたよ――二つの窓のある有名な寺院だ。ところでお前に何が起こったというのだ、と唐突にヴシィーヌは口を挟んだ、そんなことを聞かれてもまともに言葉を並べることはできない、頼むから好きに話させてくれ。ただ眠れなくなったのだと言うしかなかった――実際僕がまともに生きられなくなった原因に睡眠異常が関係しているのは明らかだった。ヴシィーヌはその間に起こった出来事を並べ立てた――次々と消えて行った皆に関しての注釈だ、ほとんどの人間は場所を変えてどこかで別の人生を送っているようだったが、なかにはすっかり消えてしまっているような人もいた。もし元気だったのなら彼らにきちんとさよならを言うことができたろうが、あの状態でここに残っていても誰にも挨拶なんかはできなかったはずだ。卒業研究の話をされた――休学前はフィールドワークの寄り道で竜ばっかり追いかけ回していた――ヴシィーヌがそのことをしっているのは驚きだったが、それと病気との間に関係はない。

 学友のパニックとピート、それに僕のあほ三人が追いかけ回していた竜のことはもうすっかり決着していた。二年前の春先ゲッドと二人で山中を駆け巡って見かけたのは比較的新しい糞が落ちている洞窟だけだったが、その後パニックとピートとともに出かけた際に何匹かの竜と知り合って話し合いをした。別に大したことではなかったが、ただ会話をしたと言うよりは人間と竜とで話し合いをしたという言い方が似合っていた。彼女――竜のママはこう言った。「あなたたちが好きよ」素敵なセリフだった。僕はその話をヴシィーヌにしてやった。ヴシィーヌは竜も仏も迷信も、ブッダもクリシュナも信じていなかった。しかし、実際にそのうちの一つを見た僕の言葉は真面目に聴いていた。あなたたちという言葉が、誰までを含んでいるのかは知らないが、少なくとも僕とパニックとピートは入っていたに違いない。ピートはあなたは仏陀の教えを信じ実践しますか?ととぼけたことを聞いた。タイの大抵の人間は仏教徒なのだからそういうとぼけたセリフも大目に見てくれるのが尊大なドラゴンたちで――彼女は照れくさそうに俯いて、足元の砂利を踏んでにじにじやっていた。まあ、私だって善いことをしようって心がけてるのよ。彼女はそう言って笑ったんだ、僕はビールを煽った。一年以上ぶりに酒を飲むのは痛快だった――僕はなぜかなんでも話してしまえるほど元気になっていた。竜はけっこう可愛らしい目をしてるんだ、瞳孔は縦に割れて黄色い、大人の竜の皮膚は暗かった――ほとんど日の下に出てこないからだ。

 結論として、彼女らはそっとしておいて欲しいとのことだった――そういってお土産に一本の銛をくれた。ジョイント式で繋げて使うタイプの銛で、子供――まだ人の形のままでしかうろつけないような子供だ――が川辺で拾って帰ってきたのはいいが、危ないので取り上げていたのだ、とママは言っていた。三叉になった槍の先端部は新聞紙で丁寧に包んで、柄の部分は紐で縛って渡してきた。くれぐれも気をつけるようになんて言っていた――ピートもパニックも僕が魚を好きなのを知っていた――実際は魚を見るのが好きなだけで、獲りに行ったりはしないのだが、何かには使えるだろうとカバンに入れて持ち帰ったのだ。まあ、僕らも竜が実際にうろうろしていることを表沙汰にするつもりはなかった、ただ大きな洞窟の底から入れる大きな街があってそこには何人も大きな人が住んでいる――太陽の下に出ると慌てて羽の生えた蛇に変わる人々が隠れている世界があるだけのことだ。そっとしておいてほしいということだったので僕の研究もそこで詰まることになった。大学二年の雨季の話だ。ヴシィーヌはいつにもなく真剣な顔をしていた――僕はこの冷徹で無感覚そうに見える男の心にも信仰あるいは文化の欠片が突き刺さっていることを知りひどく感心した。あれからパニックにもピートにも会っていない。それに僕がヴシィーヌと毎晩飲んでいた頃につるんでいたナマズやクラサといった友人たちももうここにはいなかった、いなくなった人間の思い出話をすると酒は進んだ、彼は僕の三倍も酒を飲んでいた――人種とアルコール許容量の違いこそあれ僕らは平等に飲んでおり、幸せで健康になっていた。「もう何もかも忘れたらいいんだ、馬鹿げている。じめじめ生きていると心が腐ってしまう」彼はそう言い、帰り支度をした。腹が減り始めていたので、カップ麺を買うために一緒に部屋を出た。大通りで彼と別れた――歩道橋を上がって帰っていくヴシィーヌを何度も振り返りながら僕はコンビニへと歩いた。