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イレギュラーウィンター 第一章 三話

第一章

遠く離れ、澄んで

 去年の夢について、僕は忘れてしまったわけではなかった。ヴシィーヌと酒を飲んだ晩、僕はアルコールのせいもあったか珍しく夜に眠るべくして眠り、その夢の続きを見た。僕が夢の中に存在する大河で会い続けていたのは泳ぎの上手い人間たちで、僕には追いつけないことが多かった。誰もが僕よりもうまく川を泳いだ。僕が夢の中で会い続けた人たちは皆、いつだって水底にいた――深く澄んだ瞳の中に遠い遠いところにある空の気配を歪ませていた。死人は水に浮かばなかった。沈みもしない。中水――自由に動き回る。アヤメの睫毛は青かった。それは絡みまわらないことを示しており、要するに彼女はなかなか溺れないということだ。夢の中で再びアヤメに出会ったのだ。あの女は頼むからいろんなところへ行って楽しく暮らしてはくれないかと僕に言い、最後に昼間のドアの外へ突き飛ばした――アヤメは大阪にいる僕の親友で、あの女自身ひどく病に悩まされていたにも関わらず、僕の目が銀色になってしまったのを治すために毎日川へ連れて行き、ゆっくり元気そうな顔を装い話をしてくれた。ひどい話、バンコクはドンムアン空港に降り立った時、僕はアヤメを捨ててしまうことを決めたのだった――一緒にいた時から僕はあの女の精神が自分と同じく、正常でいないことに気づいていた、そして僕が元気になれば今度は僕がアヤメのリハビリに付き合ってやらないといけないことが目に見えていた。しかしそんなことをしているとまた僕が病気になってしまう。嫌な爆弾ゲームだ。冬を避けて腑抜けた常夏に逃げてきたからには、無理な救済は諦めて、冬にちょっかいをかけず生きると決めたのだ。これはある種の裏切りだが、かといって放っておいたらアヤメが死んでしまうとも考えられなかった。

 そんな青い睫毛の女が今日、夢に出てきて「エレベーターが下降し始めたら上階を突き上げていけ」と勇気満ちた顔で言うのだ。悪いことをしていると僕は思うが、アヤメだって未来のことを知っているんだから、仕方ないと言ってくれるはずだ。翌日から僕は学校へ行くことに決めた、病気であることをやめ、怠惰であることに還った僕が制服に着替えながら、ずっと考えていたのは学校に行くのをやめる理由だった。

 一週間後、携帯電話の履歴を見ているとアヤメとの会話履歴が残っていたのでなんとなく聞き直していたら感傷的になっていて、誰かに会いたいような気がした――こっちに来てから着信をずっと無視しており、あの女は留守電も残さなかった。どのみちくたばったような日々を送っているのであれば、電話に出ても変わらないかもしれない。でも、言い訳だけはたくさんあるのだ。どうして昔の会話履歴が残っていたのかはわからなかった――聞いてみるとそれは僕が病気になってしばらくしたときの夜の会話だ。僕は翌日が試験で、だが勉強だけをするのが退屈なので付き合えよ、など乱暴なことを言って朝の五時まで引っ張りまわしていた。翌日仕事があることはお互いわかっていたが、僕がいくら心配してもあの女は問題にしなかった――あんたも明日学校へ行くんだろう?と言う。その通りだ、と僕は笑っていた――どうしてそんなにも乱暴でいられるのだろう?

 僕は学校へはまた行くようになっていたが、本当は行きたいと思ってはおらず、無理に足を動かして向かっているような状況だった。本当に動かそうと思って動けない時から比べるとよくはなったが、嫌なものは嫌だった。なにせ、外にでると全部が眩しすぎるようで今日は本当に、200メートル行ったところから帰ってきてしまった。ベッドに倒れ込んで、アヤメのことを考えていた――みんなは生きているだろうか、着信をずっと無視していたせいで、もうアヤメから電話はかかってこなくなった。天井のペンキのむらを見つめながら緩めたネクタイを触っていた。僕はもう二度と太陽を見たくない、ただそれだけなのだ。

 その日、僕に電話をかけてきたのは日本にいる親友のアヤメではなく、タイに住んでいるであろうノックケーオという名のモトカノだった。しかし、これも恋愛関係とは少し違ってこじれていて、べったりしていた時期とうっすらしていた時期のギャップとスパンが乱れており終点が曖昧、連絡なんか二年近くもとっていなかったので、話の内容に見当がつかず、慌てて電話に出た。ノックケーオはセックス依存症で、精神病でもあった――というか、その辺はおそらく鶏卵の順序に起こっているはずだ。あれはいつも大麻を吸いながらへらへらしており、親の金で何年も大学に居座って、そういうやつらしく学業成績は優秀、元気そうだが目が合うと奥の方がヤバイ――初対面はかしこまってキモいので関わり合いになりたくないと思ったが、気づいたらお互いドツボっていう感じで、始まりも終わりも健康的ではなかった。慌てて電話に出たのにはそういう背景――つまり今にも死のうとしている人間の電話かもしれないという恐れがあったのだ。話してみると彼女はどうやらまともになっていた。大学は去年卒業した、まともな恋をしているし、来年には結婚すると思うよ、なんて言う。どうして電話をよこした?と尋ねると彼女はお礼を言いたかったのだと言う。その晩、僕は彼女と食事をすることになった。

 呼ばれていったのはスクンビットの高層ビルのなかにある良いレストランで、僕は相変わらず古いTシャツを着ているのに、彼女が半分ドレスのようなきちんとした格好をしていて縮こまることになった。「元気がなさそうじゃない」と彼女は言った。僕はあまり話す気になれなかった。彼女も、僕がなるべく目を背けようとしているものと同じくらい眩しかったのだ。

「眠れないならそら豆をたくさん、食べると良いんじゃない?」と彼女は僕に言った。

「どうして元気になったんだ?」

「いっつも元気になって欲しがってたじゃない。だから元気になったのよ」

「何をした?」

「無理をしたの」彼女はメニューに目を通した。僕が黙っているのをちらっと見て笑った――昔、子供のように怯えていた彼女はどこへいったのだろうか。僕はおかしな汗をかいていた。窓の外にはバンコクの夜景がある、渋滞がゆっくりチカチカ、流れて行く。彼女は高いビルにも驚かない――もはや僕を守護者として近くにおいておこうとすることもない、彼女は僕の意見もきかないで料理を注文した。自分にはブルーキュラソーを、僕にはココナッツとバタフライピーの水色のジュースを注文した。

「僕がココナッツが嫌いなのは知っているだろう?」

「私は結構な無理をして元気になっているのよ?それでいて褒めてくれないのなら、私だってあなたに無理をさせないといけない」

「お礼にご馳走してくれるんじゃないのか?」

「そう。私本当に感謝してる、あなたと一緒にいたのは三ヶ月か四ヶ月、その間私たちは二度しかセックスをしなかった」

「僕はセックスなんかしていない」

 まず、飲み物が来た。ブルーキュラソーもバタフライピーのジュースも同じ色だ。そして、料理が来る、大きな皿に鮮やかで小さな料理、もち米、ソムタム、なんらかの黄色い麺、スープにチップスが浮いている。彼女は給仕にお礼を言った。

「したわ。――でも、いいのよ忘れてくれて。あなたがしたがらなかったお陰で、私は視線がまっすぐまっすぐしだしたし、あれからちゃんと恋愛をするようになった今の彼ができた、だいたいはあんたのおかげだと思う、それでお礼。ねえ、信じられないでしょう?」

「僕と会い始めたばかりのころは、いろんな人と近親相姦的にやりまくっていたからな」

「まともじゃなかったのよ、あんただけは私を別に異常者扱いしなかったし、セックスもやりたがらなかったから、私――

 ねえ、あのころ私、すごく寂しかったんだわ、それになんだかぽっかり穴があいているみたいで、でも変よね。今はどんなに考えても、どんな気持ちだったか思い出せないの――私、あなたが病気になって国に帰ったって聞いて――」

「僕が病気になったのと、ノックケーオが元気になったのは関係のないことだよ、実をいうと僕はもうほとんど良くなっているんだ。ただ、あのころはたくさんのことをそのままにしすぎていてうまく処理ができていなかっただけだと思う」

「夢なんかみないよ?って言う人は意外と多いのよ。働き出したら、会社で夢のことぐらいしか私話すことないのよ。それで、みんなに聞いて回ると、前にいつ見たかも思い出せないなんていうから、――私すごくびっくりした」

 僕は彼女の顔をじっと見つめた。ずっと薄っすらと笑っているまま、でもどこにも動いているところがないような気がする――私ってもう、つまらない人になってしまったから、あなたも安心でしょう?面白いこともスリルもない、平和で穏やかな――、いいや彼女はどこかに閉じ込められている。或いは、おもて面が入れ替わったとでも言うべきか、そして我々はみな、このようになっていくべきだと信じて生きている、彼女は自分の期待に応えたし、僕の期待にも応えただろう――でも、僕は別にあの頃の君だって否定したくない、だって優しかったし、いなくなってしまったなんて言われると――。僕は惨めな自分を諦め切れなかった、そいつはとても優しかったからだ。彼女は、君は、そいつを殺しちまってはいないだろうな。

「みんないなくなったって思っているんだよね。大事なのは最初の数人で、あとは自然に起こって来る――何故かっていなくなったんじゃなくて、あなたが塀をこさえて隠れているだけだから。つまりね、私と会ったらこうやって一つ穴が空いたってこと――」彼女はひとつ、ふたつとスープの上に浮いたワンタンチップスに穴を開けていく、フォークで一個ずつ。「俺にどうして欲しいんだ?」

「元気な友達に戻ってほしいのよ――恩があるから、あんたが不幸なうちは、私、幸せになっても罪悪感でひどい気持ちになるでしょう」

「わかった、僕も君も生きている。残っているものは十分にあるし、気の持ちようを捻じ曲げたら、目の下を明るくして祝うよ」